2017年全国硕士研究生入学统一考试日语试题
II.読解(55点)
A. 次の文章の[一][に][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点X20=40点)
[一]
日本には現在、朝日、毎日、読売という三大組がある。これに、日経、産経を加えて五大組と称することもあるらしい。
新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。それをひそかな誇りにしている。
なぜ読まないか、話は簡単である。読み比べて、何の区別もないからだ。久しく前から、新聞を作る人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。売文業者であることを忘れて果てた。事件が起こり、その事件を二足す二は四
という文体で報道するだけならば、それはジャーナリズムとは言えない。ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足す二は四という文章ばかりである。
( ア )、どれを見ても区別のつかない新聞に、区別をつけるのはコラム(专栏)である。いい日本語、面白い文章、楽しい文章、読んでも啓発される文章
そういうもので書かれたコラムがあるかないかが、新聞の生命を決定するとわたしは考える。
大正末期から昭和にかけて、かなり長い間毎日新聞は薄田泣董の「茶話」というコラムを載せていた。当時の毎日新聞はたった一つ、この「茶話」のコラムだけで売れていたんだ。座布団サイズの新聞が、ハガキ大のスぺースのコラムで売れていたのである。が、それは当然のことだったろう。その頃、まだ新聞はその文章によって読まれるという、本来の機能と美徳が生きていた。新聞を作る人の意識の中に文章を売るという意識があったのだと思われる。
これに対抗するため朝日新聞が持ち出してきたのが、杉村楚人冠のコラムである。どちらかというと、わたしは薄田泣董の文章のほうが好きである。いま読み返してみても、なお読むにたえるユーモア、柔らかさ、清新さ、色々なものを含んでいる。こういうコラムというものが、もうなくなってしまった。あのコラムがあるために新聞を読もうという喜びが、ことごとく死に絶えてしまった。もちろん、外部の偉いセンセイたちに頼んでコラムを書いてもらう欄はいくらでもあるし、どの新聞にもある、が、その内容自体が凡庸、陳腐、お粗末······ことごとくこれで、全然面白くない。にもかかわらず、止められないでいる。だれも読まないのに止まられないという点では、死亡広告の記事に似ている。
ニュースそのものは、現代、即刻テレビで報道されてしまう。そして、ロコミというコミュニケーション機関もある。従って、新聞の権利回復はいまこそコラムにかかっているのである。読みたくなるようなコラム、これが新聞なんだ。
21. 文中に「新聞というものを、······している」とあるが、それはなぜか。
[A]新聞の文章を書く人たちは文章で生計を立てる必要がなくなったから
[B]新聞は事実を伝えなければならないという義務を徹底的に忘れたから
[C]新聞の内容はどれもこれも大体同じで変化がほとんど見られないから
[D]新聞は朝日などのいわゆる三大組また五大組に独占されているから
22. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]なお [B]さて [C]そのため [D]すなわち
23. 文中の「それ」は何を指すか。
[A]字数の少ないコラムが当時の毎日新聞を支えていたこと
[B]薄田泣董の書いたコラムを長い時間毎日新聞に載せていたこと
[C]美しい日本語で書かれたコラムが新聞の生命を決定していたこと
[D]新聞の本来の機能と美徳が当時の日本社会ではまだ生きていたこと
24. 文中の「新聞の権利回復は······かかっているのである」とあるが、それはなぜか。
[A]現在はどの新聞のコラムの内容もつまらなくて清新さが全くないから
[B]テレビはコラムのような形でニュースを報道することができないから
[C]ニュースを即刻に報道する面において新聞はテレビには勝てないから
[D]コラムから新聞を読む喜びを味わいたい人がいないわけではないから
25. この文章の内容に合っているものはどれか。
[A]現在の新聞をつくる人たちは自分が文章で生きていることを完全に忘れた。
[B]だれも読まない新聞のコラムがいずれ死亡広告の記事に取り替えられよう。
[C]朝日新聞と毎日新聞の競争が現在のような清新なコラムの文章を生み出した。
[D]事実を報道する場合には新聞の文章は作者の発想や意見などを避けるべきだ。
[二]
一人の人が一生のうちに、何人の先生にものを教えてもらうだろう。幼稚園から始まって学校の先生方は言うまでもないが、この頃は学校外にお稽古事をするのが流行で、小さい人がピアノとかバレエとか特別の先生についている。学校を卒業したお勤めの人たちも色々先生をもっている。生花・茶道路組もあるし、手芸組、スポーツ組、実用組の人は薄記・筆記・タイプライターと何でも次々に習得しようというのもある。
主婦はタイプや筆記を習っても、それを生かして働きに出るだけの時間のゆとりがないから、こういう勉強をする人は少ないらしく、スポーツもいまさらテニスは骨が折れるし、
手芸が多いだろうか。
知人に生花・茶道の先生があるが、忙しい中に暇を作っては、書道・日本舞踊と習って歩く。人にものを教える商売は、つつしみがちになるので、気がふけていけない(怀疑是试题打错,気が抜けてはいけない)と言う。先生と呼ばれれば、いつもどこからか多数の生徒に見られている、と覚悟していなければならぬ。「学ぶ」は「まねぶ」であって、真似る意味があるのだから、見られているということは真似られることだとまずはそう思わなくてはならない。真似られて恥をかくようなことはできないから、いつも謹んでいる。すると着物でも何でもつい地味に落ち着いたものを選ぶようになるし、気持ちもなるべく平穏にと心がけるので、いつしか年齢よりふけてしまう。けれどもお弟子さん方は欲張りで、ふけて落ち着いている先生は好きなくせに、ふけ込んで若さを失っている先生なんかは大嫌いなのだそうだ。ふけていて若々しくなくては、生徒たちに人気がないのだそうだ。難しいものだ。
ものを習えば若々しく見えるという。それでその先生たちはせっせと稽古事をして、活気を絶やさないように心がけ、かつ楽しんで生活をしているのである。
授業料を出す出さないにかかわらず、教えてくださいと願う以上は、教えてくれる人は先生である。でも願わないで教えてもらう縁もたくさんある。私にも学校の先生のほかに、幾人かの先生のお世話にもなり、また願わないで教えてもらった師もたくさんある。ふと読んだ本、通り掛かりで見てはっと納得した光景等々、何人の師に逢っているかと思うとき項垂れて感謝する。その中で大きな師が一人いる。
死である。私は十年ほど前に父の死にあったのだが、あの死にあったのでどんなにいくつものことを教えられたか、数えることも何もできないのである。死というのは、人生の最後のところに控えた大先生であると思う。だが、この大先生にあって教えを受けるのは、
頭の悪い、しかもなまけもののみなのだ。死は師である、と私は思っている。
26. 文中の「こういう勉強」の内容はどれか。
[A]ピアノのような芸術的なもの
[B]タイプのような実用的なもの
[C]生け花のような伝統的なもの
[D]テニスのような体力的なもの
27. 文中に「つつしみがちになる」とあるが、それはなぜか。
[A]いつも他人に注目されて模倣されていることをよく知っているから
[B]若くても年齢が上だという印象を学生に与えたいと思っているから
[C]落ち着いた服を着て学生を教えることがすでに常識になっているから
[D]忙しくても書道や日本舞踊など教養となるものの勉強をしているから
28. 文中に「難しいものだ」とあるが、なぜこのように言うか。
[A]学生は授業料も出さずに先生にものを教えてもらうこともしばしばあるから
[B]学生は生け花や茶道の先生に書道などのことを教えてもらうこともあるから
[C]学生は欲張りで気持ちの平穏で落ち着いた実際年齢の若い先生が好きだから
[D]学生はふけて落ち着いているけれども若さを失っていない先生が好きだから
29. 文中の「死は師である」とあるが、なぜこのように言うか。
[A]人間がふけてしまうと、死だけが実際に何かを教えてくれる存在になるから
[B]感謝はしないが、死は本に書かれていないことをたくさん教えてくれたから
[C]頭が悪くてなまけものの人間が、死に直面して初めて勉強するようになるから
[D]願わないことであるが、父の死から考えさせられることがたくさんあったから
30. この文章の内容に合っているものはどれか。
[A]学校を卒業した人たちの先生の中で、実用組の先生がもっとも多い。
[B]スポーツ組の先生は仕事が忙しいので、地味な服がもっとも似合う。
[C]人の一生にあった先生の中で、願わないで教えを頂いた先生もいる。
[D]実際年齢が知られたくないので、若々しく振舞っている先生もいる